地下鉄の駅の長いエスカレーターを上り、だんだん上の方から街の景色が見えてきた。雑司ヶ谷駅を出ると、すべてのものに日が当たっていた。頭上が青く、都電が走っていた。「何だこの街は、美しすぎる」と小澤さんが言い、私もそれに賛同した。傾いた日が向こうからサァーッと差しており、自転車に乗った母親が後ろの子どもに話しかけながら視界の端を去って行き、「母親が子どもに話しかけてる」と私が言うと「普通だろ」と小澤さんが言った。色々なものがあった。メロンパン屋があり、「このメロンパンは美味しい」と私が言うと、小澤さんは「食うか。いや、腹が減っていないからな。どうするか」と言いながら通り過ぎた。不動産屋があり、昔ポプラだったコンビニがあり、知らない店が増えている。「すべてのものに日が当たっている」とまたわれわれは言うと、町の掲示板の前で立ち止まり、『笑顔育〜笑顔を身につける方法〜』と書かれたセミナーの案内文を読んだ。「たしかに笑顔は訓練で身につけるものだ」と小澤さんが言うと、私も得心した。公園に植えられた背の高い樹々の枝葉が日に当たって緑に黄色に光りながら風でざあざあ揺れているのを指差しながら、「樹々が揺れている」と私が言うと、小澤さんは「俺にはただ枝葉が揺れているだけにしか見えない」と言った。公園には子どもたちが集い、皆が笑っていた。
私が住んでいたアパートへ着くと、驚くほど古めかしく、汚く、ほとんど朽ちていた。なぜこんなところに長いあいだ住んでいたのだろう。『生活音にお気をつけください』と書いてある張り紙が新たに貼られていた。一体何があったのだろう。近所のコインランドリーも解体されて無くなっていた。Mr.Childrenの歌でも、
亡霊が出るというお屋敷を キャタピラが踏み潰して
来春頃に マンションに変わると 管理人が告げる
また僕を育ててくれた景色が あっけなく駄目になった
少しだけ感傷に浸ったあと「まあそれもそうだなあ」
というものがあるが、それと同じような気持ちになった。
パン屋はまだあった。古本屋もある。肉屋もまだある。
銭湯はまいばすけっとに変わっていた。するとやはりMr.Childrenの歌詞と同じことを思った。
半地下になっている空き店舗だったところに、新しい店が入っている。風が吹くと、ドアが小さな音を軋ませながらこちら側に開き、私が思わず中を覗こうとすると、小澤さんが手を振りかざしてそれを制止した。しかし私たちは思い直し、すぐに引き返して行くと、通りがけに少しだけ店の中を覗いてみた。すると、ケーキの入っているショーケースがあったから、洋菓子店か喫茶店のような店なのだろう。白い調理帽を被った女性と目が合うと、彼女は口角を上げて微笑んだ。小澤さんに引かれて道を先へ行くと、一瞬、左へ袋小路になっている突き当たりの路地で子どもたちが遊んでいるのが見えた。「チーター?」と小澤さんが言うと、私たちは歩いて行き、しばらくすると小澤さんが急に思い詰めたような表情をして、「俺が見たものを、お前にも見せたい。今、チーターがいたのだが」と言い、先ほどの袋小路へ引き返していくと、まだ子どもたちが遊んでいる。と、その一軒前の家の軒先に、妙に精巧な作りのチーターの置物がこちら向きに置いてあり、チーターの置物と言うものだからもっとデフォルメされたものだと思っていたが、これではほとんど剥製ではないか。なぜこんなところにこんなものが置いてあるのだろう。私たちは動揺したが、やはりすぐに歩いて行った。いつでもどこまでも歩いていく。
思い返してみれば、この一連の流れが、ジャズだった。ジャズは、主体と客体にそれぞれ閉じられていない。たとえば景色を見るときに、「景色」があってそれを「私が見る」のではない。これは認知哲学の本にも書いてあった。そういえば、たしかに、その本の中では生物の認知をジャズに例えるシーンが少しだけあった。Makaya McCravenのおかげで私の中でジャズと認知哲学が体験として明確につながった。店があって、調理帽を被った女性がいて、私がいて、小澤さんがいて、路地裏で遊んでいる子どもたちがいて、チーターがいる。のではなく、それぞれの認知はお互いにほぼ無限にフィードバックして形成されていて、じつはそれぞれ閉じられた主体や客体ではない。ジャズは、誰かが弾いたフレーズに反応してほかの楽器の運動が形成される。一緒に演奏しているとき、ドラムと、ギターと、ベースと、トランペットは、お互いに閉じられた主体や客体ではない。それらはお互いに無数のフィードバックループをしている。生物の脳・身体・環境が無限にフィードバックループしてあらゆる認知が形成されるのと同じ構造でジャズは行われている。というより、それをジャズと呼ぶのならば、生物の行いは(生成AIも)ほぼすべてジャズであるということになる。われわれはまったく閉じていない。混ざり合ってめちゃくちゃになって一瞬の時間や空間になっている。Makaya McCravenのライブを見てから、すべてがジャズのような気がしている。そしてそれはおそらく本当に正しいような気がしている。
トム・ヨークのライブはライブというよりも個人的な作品発表の場としてのインスタレーションのような感じであり、部屋で機材を鳴らしている感じをそのまま巨大な劇場の音響に持ってきたような感じであった。おそらく本人の意図もそのようなものであったことだろう。観客はいつものライブのように盛り上がろうとしていたが私はその乗り方は演奏の主旨とは少しズレていたのではないかと思う。いずれにせよ座席に座って見るのに適しているような演奏になっていたと思う。やっていることや演奏していることはそれほど難しいことではなく機材も小回りの効く最小限のもので、しかしそれを巨大な劇場のセットでやるというのが見ていて楽しかった。即興の要素はあまりなく、同期演奏が多い。演奏を見ながら、色々なことを思い出したり、考えたりした。やはり何でもやってみるのは大事だな、と感じた。トム・ヨークは偉大な作曲家だと思った。ギターで作った曲、モジュラーシンセで作った曲、ドラムマシーンで作った曲、どれも違っていて、どこか似通っている。やはり私は最近はピアノで作った曲が一番好きかもしれない。トム・ヨークのピアノ曲は素晴らしい美しいメロディだ。エフェクトを使わない電子ピアノのシンプルな弾き語りがすごく良かった。アコギの弾き語りも良かった。やはり何でもやってみるのが大事だ。