深沢七郎『無妙記』
隣室の三人の男は大学生でそのなかのひとりが部屋の借り主で、他の二人は用事があって来たのだった。
「うーん、俺、いま、女(スケ)が来るんだ」
「スケーなァ。ゆうべのスケか? 新車か?」
と洒落で言うのは「運転手」と呼ばれる大学生である。背も顔つきも中学生ぐらいしかないが自動車部員でクルマの運転ばかりしているから「運転手」と呼ばれていたのだった。この男はこれから名古屋にドライブして正面衝突をして、夜なかには死骸となって運ばれて来るのだった。そうして、間もなく、そこの金閣寺の裏の火葬場で白骨になってしまうのである。
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腕の神経痛の男はアパートを出た。西大路の大通りに出ると目の前を一台の霊柩車が走っているのが目に映った。金閣寺の裏の火葬場へ行く死骸を乗せて走っているのだが、その運ばれている死骸も間もなく白骨になるのである。霊柩車のあとからタクシーが二台つづいて走っていて、中にいる喪服を着た会葬者たちは、何年か、何十年たてば白骨になるのである。だから、いま霊柩車で運ばれている死骸とはわずかの別れだが、別れを惜しんで憂いに沈んだ顔をして乗っているのだった。腕の神経痛の男は銀閣寺・百万遍行の市電へ乗った。
電車の中には白骨たちがいっぱい詰って乗っていた。これから映画を見に行く白骨たちや、夕食の買物に行く白骨たちや
(わたしの着ているお召の着物や西陣帯はなんと美しいことだろう)
と思いながら乗っている白骨たちが顔を合わせたり、電車がゆれて顔が触れそうになったりするがお互いに黙り込んでいた。
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雨がどーっと降ってきて、腕の神経痛の男は京極の裏町で食堂へ飛び込んだ。夕食をするのだが、丁度、雨やどりにもなったのである。
「天丼ひとつ」
と注文した。
「並でええわ」
と上物ではないのを食べることにした。隣りのボックスでは二人の白骨が骨つきの鶏のカラあげをしゃぶりながら話していた。
「判決は、今日きまったよ、死刑だ」
「やっぱり、死刑か。無期になるかと思ったが」
「とてもだめだよ、無期には」
「判決の理由は」
「裁判長は言ったよ、”俺はお前のようなことはしない、俺とお前とはちがうぞ、お前は強盗、殺人、放火だ、俺はお前のようなことはしない”と言ったよ」
「それで、キミは?」
「俺など、なんでもないよ」
「キミも、その共犯じゃないか」
「俺はまだ捕まらないからいいよ」
「ヤツひとりで、しゃべらないのだな」
その向こうでも三人の大学教授の白骨たちがエビの天ぷらを食べながらしゃべっていた。白い歯でエビの天ぷらを食べながらひとりの大学教授の白骨は言った。
「天ぷらを美味いという者は味覚の発達した者だよ、つまりなんだよ、天ぷらの味の美味さが判る者は、味覚が鋭敏で、つまりなんだよ、天ぷらの味の美味さが判る者は味覚に対する神経がすぐれているということなんだよ」
もうひとりの大学教授は白い歯を出して、やはりエビの天ぷらをしゃぶりながら言った。
「そうなんだナ、それは天ぷらを好きな者の前で言うことなんだ、だから、それは相手に口うらを合わせて言うことなんだな、実際は天ぷらの味を美味いと感ずる味覚ぐらい愚かな、ゲスな、鈍感な味覚神経はないんだな、つまりなんだよ、天ぷらを美味いという神経は味覚の劣った者なんだよ」
そこでもうひとりの大学教授の白骨が言った。やっぱり大きな白い歯をむきだして、エビの天ぷらをしゃぶりながら言った。
「そうそう、揚げた物に美味いというものはないんだ、熱いアブラの味は、マムシとかウナギとかいうものと同じなんだな、ウナギを美味いと感ずる感覚は、最低の味覚だよ」
三人の白骨はエビの天ぷらを食いながら喋っている。雨がどーっと降って、京極の通りは修学旅行の白骨の群れが押しよせるように通っていた。土産物売り場の白骨の売り子が黄色い声で
「とても、お気の毒な品物だけど、早く買ってお土産にしなさいよ」
と声をはり上げていた。その隣りの喫茶店では二人の女の白骨が向かい合って話していた。
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その頃、京極の通りを四条に向かって歩いているのは夕食の天丼を食べ終った腕の神経痛の男であった。また、その頃、六波羅の借金男は河原町を四条から三条へ歩いていた。ナイフで腕の神経痛の男を刺そうと探しまわっているのである。腕の神経痛の男はまもなく六波羅の金を貸した男にナイフで刺されるのである。そうして、その傷が原因でその年の暮、死骸になって火葬されて、バラバラの白骨になるのだが、そんなことは全然知らないで京極の通りを歩いていた。
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雨は一時止んでいたが比良の八荒の季節風は、しつこく吹いた。どーっと雨が吹きつけて、京極の通りでは修学旅行の高校生たちの白骨の集団が雨の中を走り廻っていた。地下には無数の白骨が散らばっていて、腕の神経痛の男が、そんな光景を思い浮かべて京極の通りを眺めていた。雨やどりをしているのは土産物の軒下である。店の中では
「おいでやす、この羊羹、一箱七十円で仕入れたんどすけど、三百五十円で買うたらどうどす」
と、ひとりの白骨の女が騒いでいた。
幸田文『台所のおと』
あきはくわいの腕だねをこしらえていた。すり卸したくわいを、箸でほそながくまとめて、から揚げにする。はなやかな狐いろになる。佐吉の好きな腕だねの一つだった。くわいはあまり油をはねず、さわさわとおとなしく火がとおる。揚げものは時によると香ばしく嗅げるし、時によるとむっと胸にくる。それを思って障子はしめてある。佐吉から台所はみえない。初子がいいにきた。
「おかみさん、旦那さんはいま、へんなことをいったんですよ。雨がふってきてありがたいって。半分眠っているみたいだから、寝言でしょうか。」
あきはガスをとめて、行った。
「久しぶりの雨だねえ、しおしおと。」
やっと、揚げものの音を聞きちがえているので、幻聴ではないと判断した。とっさにどう返事をしようかと迷ったが、どうせはっきり醒めればわかってしまうことだからときめた。
「雨じゃありませんよ、あれ、油の音だったんですよ。」
「なあんだ、油か。うつうつとしていたものだから、すっかりまちがえた。雨が降ればいい降ればいいと思ってたものだから、そう聞えちまったんだ。」
「そんなに雨がほしいんですか。」
「ああ、待ってるねえ。降らないと皮膚がつらいよ、かさかさして。それにしても爽やかな音だったが、なにを揚げたの? ああ、くわいか。もう取っ手が青味をみせてきたろ?」
「いえ、まだです。」
「でも、もうそろそろ、おしまいだ。ねぎにも人じんにも、今年もたんと厄介になったけど、みんなもうすぐ芽になる。古野菜はいまがいちばん味が濃いんだけど、うまい時がなごりの時だ。つぎつぎ消えていっちまう。」
「その代り、すぐまた芽がのびて、新しいのが出てくるけど。」
あきは今を外しては、初子と秀雄のことを持ち出す時はないとおもった。そのとき、佐吉がいった。
「あき!」
「え?」
「ーー芽がなくっちゃ、古株の形がわるいよね。そう思わないか?」
「ーー」
ことばと声が団子になってつかえた。また佐吉が早かった。秀雄と初子はどうだ、といった。
その夜、ほんとうに雨が来た。しおしおと春雨だった。佐吉は、床の中にもぐっていても、皮膚に油気が出て、皺がのびたようだといった。お濠の柳は青くなったか。花屋にから松の芽吹きが出ているだろうか。あれはどこだっけね、なんでも武蔵野だった、りっぱな柳の並木があるから、見に行っておいで。その芽立ちがそりゃ見事だ。ああ、いい雨だ。さわやかな音だね。油もいい音させてた。あれは、あき、おまえの音だ。女はそれぞれ音をもってるけど、いいか、角だつな。さわやかでおとなしいのがおまえの音だ。その音であきの台所は、先ず出来たというもんだ。お、そうだ。五月には忘れず幟をたてな、秀がいるからな、秀が。ああ、いい雨だーーとえらく沢山しゃべった。