241024殺意

理由はわからないがとても嫌いな人が職場にいて、しかし私は彼のことが好きなのかもしれない。嫌いということは好きということだ。なるべく無関心でいようと頑張ったが、駄目だった。ということは、好きなのかもしれない。どうにも鼻につくし、できれば殺したいと思う。「死んでほしい」ではなく、殺したい。勝ちたいのだ。私は負けず嫌いなのかもしれない。自分が彼に意見をあおいだり彼のペースに合わせて顔色をうかがったりするのがどうにもムカつくし、本当にムカつく。頭にくる。彼は何歳なのだろう? 50歳くらいだろうか? 性的な魅力を兼ね備えた中年の男性で、経験も豊富だ。私は彼のことが好きなのだろうか。そう考えてみると、たしかに好きなような気もする。おかしな話だ。ついさっきまで私ははらわたが煮えたぎるほど怒り狂っていたのに、いまこうして書いてみると、不思議と彼のことが好きなほうに気持ちが傾いてきた。私は彼に抱かれたいのだろうか? キスできるだろうか? いや、できない。だがそれも、はじまってしまえばあとは身を任せるだけか。男と寝ることができるだろうか? いや、できない。だがそれも、はじまってみないことにはわからないのではないだろうか? 彼の殺し方については少し考えたが、やはり毒や謀略の類はふさわしくなく、まあ西部劇で言うところの拳銃一発でパンッ!・・・といったところだろう。拳銃というのは良い、とゼミの教授も言っていた。「刀ってのはよォ、情念が乗るよな。要は物理的に一発で斬り殺しづらいわけだ。刀の斬り合いってのは、なにかとヌメヌメとした精神性みたいなものがまとわりつくよな。でも銃はちげェからよ。パンッ!・・・てさ。一発でおだぶつよ。この生死のドライさが良いんだよな。意味ねえんだよ。殺し合いなんて。だからパンッ!・・・だよ」と言って、私たちにその種の『西部劇』を書くように課したが、私は書き終えることができず、ひどい敗北感に襲われた。

彼の嫌いなところについて考えていたはずだが、それについて記述しようとした瞬間、何もかもが完全にひっくり返った。怒りは性欲と混ざって甘いchocolateのようなドロドロしたものになった。ほう。これがchocolateか。あんなに怒っていたのに、言語が現実を再編してしまったのだ。われわれは言語で世界を認識しているから、言語による認識が変われば世界もたやすく組み変わってしまう。精神的外傷(トラウマ)と呼ばれるものも、じつは言語で治るケースがあるようだ。明日から私はあの男の前に立つたびに怒りではなく性欲を感じるかもしれない。しかし怒りよりはましだ。なぜならば、苦さよりも甘さのほうが、人は、良いからだ。

しかし彼を殺したいと思う気持ちは依然消えず、やはりこれは私に勝ち気な気質があるからかもしれない。よく「支配されることの悦び」みたいなものを説く性的嗜好があるが、私は理解できたことがない。反対に「支配することの悦び」も感じたことがない。よくよく考えたら、生に憩うところはないし、悦びもない。でも、たまにある。しかしそれがあるときは、たいていは一人でいるときである。

あの男はどうだろうか、ということを考えると、おそらく私とはまったく違うタイプで、そういう意味では私よりもずっと多数派に属し、多くの人に好かれるだろう。私の気に障るのも、おそらくこの部分が原因なのだろう。私は人に理解されないと、悲しいのかもしれない。私は人の評価を気にしているのかもしれない。あまりにもムカつきすぎて、バスに乗って街へ出てしまった。ロイヤルホストでビールを飲みながら原稿を仕上げ、あいつ絶対殺す、あいつ絶対殺す、と思っている。